3.11震災から5年。帰ってきた人。知られざる影響。
こんばんは
2016年3月11日で東日本大震災から5年となりますね。
私は2013年の8月、12月。2015年の10月と3度被災地に訪れているのですが、復興の進み具合は正直あまり順調に進んでいるように思えません。
そんな5年経って遺骨が見つかり、震災5年経って身元不明だった女性が家族のもとへ帰ってこれたというニュースを見ました。
震災から5年。まだまだ終わっていないというのを痛感しました。
震災の影響とは。
私はしいたけ農家にお手伝いに行きお話を伺ったのですが、そこのしいたけ農家ではビニールハウスなどはすべて流され、ご主人の家も流されているという状況でした。
しかし、4年半(私が行ったのが2015年10月でした)経ち、だいぶ出荷は安定して取り戻してきたよっとおっしゃっていました。
そこの農家では生産からパック詰めまですべて手掛けていました。
そこでふと疑問に思いました。
「すべてJAに卸しているのですか?」
その質問の回答は驚くべきものでした。
「震災前はJAには3割卸していたよ。でも今じゃ7割卸してるよ。」
やっぱち震災の影響を受けて自分で出荷するのは大変なのかと思っていたら。
「3割の卸しじゃ支援金出さないって言うんだもん。今までは近くのスーパーとかに直接卸してたけどさ。そのせいで逆転したよ。」
正直驚きました。支援金の意味ってなんなのだろう?そう思いました。
条件をつけて出す支援金って本当の意味で支援金って言えるのでしょうか。
弱い者の足元を見て貸す貸し付けのように感じました。
みなさんはどう思うでしょうか?
大自然の恐ろしさ。その爪痕。
この写真は南三陸町 防災庁舎の写真です。
東日本大震災の恐ろしさを忘れないためにそのままの形で残されています。
ここからは私が現地で撮った写真を貼ります。(iPhone画質ですいません)
津波が校舎の3~4階の高さまで来たというのが分かります。
どうやら船があたり、校舎がかけたようです。
ぐちゃぐちゃの校舎。
そのままの状態で残されています。
波によって削られた大地。
そしてかかっていた歌津大橋は波に飲まれました。
正直この被害の様子を目の前にすると言葉が出ませんでした。
他にも写真は撮っていないのですが慰霊碑を目の前にすると涙がこみ上げてきます。
(死亡当時の年齢が書かれているのですが、幼い命。家族で亡くなられた方も多いです。)
被災地の方々は私の想像以上にたくましかったです。
被災の影響ではいろんな人と話すことが出来る。そう語る人さえいました。
しかし、彼らはその時の記憶をそっと胸の底にしまっているというのも事実です。
現地ボランティアの人はこう言います。
「彼らは話したいんだよ、被災のこと、どんなに大変だったか、どんなに辛かったか。伝えないといけないと思っている人もいるしね。だけど自分たちのコミュニティでは話せない。だからこそ、外部からのボランティアの人が耳を傾けることには大きな意味があるんだよ。」
被災地に人が訪れるだけで活気が出る。
まずは行ってみることだと思います。同じ日本国内。そんなに遠い問題ではないのではないでしょうか?
今回の関連のニュースです。
<震災5年>遺骨の身元判明 感無量の遺族 (河北新報) - Yahoo!ニュース
東北支援団体